ロジェ・ボナフェ、ベルナール・ガントナー等日本・海外画家の作品は画廊「ギャラリ−藤井」 ロジェ・ボナフェ、ベルナール・ガントナー等日本・海外画家の作品は画廊「ギャラリ−藤井」 ロジェ・ボナフェ、ベルナール・ガントナー等日本・海外画家の作品は画廊「ギャラリ−藤井」 ロジェ・ボナフェ、ベルナール・ガントナー等日本・海外画家の作品は画廊「ギャラリ−藤井」 ロジェ・ボナフェ、ベルナール・ガントナー等日本・海外画家の作品は画廊「ギャラリ−藤井」  
日本人画家 竹久夢二の作品です
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竹久夢二



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七夕

七夕


黒猫を抱く女

黒猫を抱く女


やなぎ湯

やなぎ湯

竹久夢二の作風

大正浪漫を代表する画家・詩人で、数多くの美人画を残しています。はかなげで感傷的な女性を描いた夢二の美人画は、当時の女学生のあこがれとなり、「夢二式美人」という言葉を生み出しました。

没後60年を経た現在でも高い人気を誇り、日本各地に彼の名を冠した美術館が存在します。

画家略歴 竹久夢二

竹久夢二
たけひさゆめじ

1884年

岡山県邑久郡本庄村に生まれる

1902年

早稲田実業入学

1905年

同校の専攻科に進む。読売新聞日曜文壇に投書した「可愛いお友達」が掲載。友人である荒畑寒村の紹介で、平民社機関紙『直言』に、コマ絵が掲載される。また、『中学世界』に応募したコマ絵「筒井筒」が第一賞入選。初めて夢二の筆名を用いる。早稲田実業専攻科を中退

1906年

島村抱月編『少年文庫』壱の巻の装幀、口絵等を担当

1907年

結婚。妻・たまきをモデルに「夢二式美人」が生まれる

1909年

たまきと協議離婚。著作『夢二画集 春の巻』刊行

1912年

『少女』誌に、さみせんぐさの筆名で「宵待草」の原詩を発表

1914年

呉服橋に絵草紙屋「港屋」を開く。笠井彦乃と出会う

1917年

京都で彦乃と同棲をはじめる。『お江戸日本橋』等、セノオ楽譜表紙の装幀を手がける

1918年

多忠亮によって作曲された「宵待草」がセノオ楽譜から出版。東京に帰る

1919年

佐々木カ子ヨ(お葉)をモデルとし、菊富士ホテルへ通う

1920年

彦乃、25歳で永眠。大阪時事新報に「凝視」の挿絵連載はじめる。「秋のいこい」を描く

1921年

渋谷町宇田川に、お葉と世帯を持つ。福島、会津等に長期旅行し、画会を開く

1923年

恩地孝四郎らと「どんたく図案社」結成を発表するが、9月の関東大震災で壊滅

1924年

都新聞に、絵画小説「秘薬紫雪」「風のやうに」を連載。アトリエ付住宅「少年山荘」(山帰来荘)建設

1927年

都新聞に、自伝絵画小説「出帆」を連載

1930年

銀座資生堂で「雛によする展覧会」を開催。「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を発表。 森口多里、島崎藤村、有島生馬、藤島武二らが賛助の名を連ねる。

1931年

新宿三越で「渡米告別展」を開催、「遠山に寄す」を出品。新宿紀伊國屋書店で「竹久夢二氏送別産業美術的総量展覧会」、京城三越で「竹久夢二氏作品展覧会」、上野松坂屋で「竹久夢生告別展覧会」を開催。「立田姫」を描く。 5月、横浜港より出帆、ホノルルに2週間滞在の後、アメリカへ向かう。カーメルのセブン・アーツ・ギャラリイで展覧会開催

1932年

カリフォルニア大学ロサンゼルス校、ロサンゼルスのオリンピックホテルで個展開催。9月、サンピドロ港より出帆。パナマ運河経由で、ドイツのハンブルクへ。船中で油彩画「さよならアメリカ」を描く

1933年

ベルリンのイッテン画塾で日本画講習会を開く。9月、帰国。10月には台湾を訪れ、台北市の警察会館で「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月に帰国するが、病悪化し病臥

1934年

信州富士見高原療養所の特別病棟に入院。最後の装幀本『祇園囃子』(長田幹彦著)が刊行される。9月1日逝去


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